天璋院篤姫篤姫は天保6年12月19日、薩摩国(現在の鹿児島県)藩主島津家の一門、今和泉家第5代当主忠剛の第4子として現在の鹿児島市に生まれました。
幼少の頃の篤姫は一子(かつこ)と名付けられ、大変利発で活発な子でした。約19年間を鹿児島で過ごした一子は、女の子ながら兄の(忠冬)より勇気があり、並み外れた感性と器量の持ち主に育ったと言われています。 そんな一子が18歳のときに転機が訪れます。当時、第代将軍徳川家定は二人の妻を公家から迎えましたが、二人とも長生きせず家定自身も病気がちだったことから、家定の母である本寿院は、広大院(十一代将軍家斉の妻として徳川家に仕えた島津家出身の茂姫)にあやかりたいと、将軍を支えられるしっかりとした夫人を求め、嘉永3年、島津家に将軍夫人の候補を求めました。島津家には適齢期の娘がおらず、今和泉家の忠剛の子である一子に白羽の矢がたったのです。 嘉永6年(1853)、名を篤姫と改め島津家第28代当主斉彬の実子として、鹿児島を立ち、近衛家の養女を経たのち、安政3年(1856)12月18日に家定と結婚しました。斉彬が一橋慶喜(徳川慶喜)の将軍後継を実現させるために篤子を徳川家に輿入れさせたと考えられています。しかし、一年半後の安政5年(1858)7月に家定が35歳で亡くなったため、その使命を果す事は出来なかったと言われています。篤子は落飾して天璋院と号し、その後、前将軍の妻として大奥を仕切りました。 幕末の動乱期には実家の島津家は将軍の敵となりましたが、江戸幕府が消滅して江戸城無血開城に至る中、自らの実家である島津家・新政府に徳川本家の存続や慶喜の助命を働きかけるなど、徳川家のために尽くしました。 晩年は自分の所持金を切り詰めても元大奥の者の就職や縁組に奔走しました。明治16年(1883)11月20日に東京の一橋邸で49歳の若さで亡くなりました。徳川家第16代当主家達(いえさと)を育てあげたのも天璋院といわれ、東京都台東区上野の寛永寺に夫・家定の墓と並んで埋葬され、現在でも徳川家に大切にされています。 |